お知らせ

工学部岳稜会のOB会報告

工学部岳稜会が鍛えた私

 昨年12月京都平安ホテルで開かれた工学部岳稜会の還暦以上の会員によるOB会に久々に参加した。懐かしい面々とのしばしの懇親会の後、16人全員で今出川の新校舎へ移動して学校関係者の方の案内で見学した。大変に充実発展している様子を知り、感動に満たされて帰路に就いた次第である。

 さて、私の学生時代の岳稜会について述べさせて頂くと、私は入学後の1年間在籍していた別のクラブに限界を感じていた。2回生になった4月のオリエンテーリングで岳稜会に出会った。聞くと前月までは「電研山の会」だったが対象を工学部全体に広げたところで、機械科の私はすぐ申し込んだ。
 入会後は早速夏山合宿に向けての歩荷(ぼっか)訓練を愛宕山、北山等で行い厳しく鍛えられた。
 合宿は白馬岳のある後立山完全縦走8日間でテント等の共同装備もあって1人当たりの荷物は30kgを超えた。上安ながらもこの山行をクリアしてからは体力に自信がつき、卒業まで有意義に過ごす事が出来た。
 今、少しふりかえるだけでも次のようなことが頭に浮かぶ次第である。
①2回生の時に合宿に向けての段取り準備や訓練方法の基礎をしっかり教わった。
②3回生の合宿は浅い経験の私もリーダーをすることとなり、文字通りリーダーシップ実践の勉強になった。
③3回生の年度末にはガリ版刷りの会誌「くまざさ《を発刊して活動記録とした。
④京都北部へ続く連山に含まれる「山城五十山《等の山々の三角点探しは迷い易く難しかったが、地図や磁石を使う訓練に大いに役立った。

 学生時代を終え、就職してからは30年以上登山をしなかった。50歳で東京へ赴任して5年後に埼玉県秩父のしだれ桜の巨樹見物に行き、武甲山の雄姿を見て登りたくなったのがきっかけで登山を再開した。NHKテレビの影響で「深田の百吊山」ブームも始まり、せっせと登るうちに気付くと四十座を越えていたので百座登頂を目指して退職後2年目で達成した。
 一方で、一企業戦士として悪戦苦闘の多くの挑戦をさせてもらい、それらのストレスにも負けずにやってこられたのも学生時代につちかわれた「力」によるものだと思う。司馬遼太郎の講演記録によれば新島襄の遺言は「倜儻上羈(てきとうふき)の人を育てよ」とのことである。口はばったい話で恐縮だが前述の「力」こそ新島先生の薫陶を間接的に同人の方々から受けてきた結果だと信じている。

機械工学科 昭和41(1966)年卒
広瀬 逸男 記



<添付写真>
①平成24年岳稜会の集い
 昨年12月17日(月曜日)烏丸今出川の平安ホテルで行われた岳稜会の集いの写真です。
 急遽の開催となったが、出席者は岳稜会の創部者上西勝也会長(S37年電気)をはじめ、遠路埼玉県川越市から駆けつけた森本欣司郎、尾張旭市から広瀬逸男(筆者)、大垣市から堀江弘宣夫妻、岡山市から山本敏夫(S46年機械)、地元関西からは藤原義博、薮崎努、岡本晃、森本護、山本明二(S41工化)、野田純一、鈴木進、恒藤邦夫、川野直男、熊倉正彦の諸氏16名が集まった。

②夏山合宿 後立山連峰・爺が岳山頂にて
 岳稜会の恒例行事である北アルプス合宿でのなつかしい思い出の写真です。
 私にとっての初合宿、白馬岳から後立山連峰8日間完全縦走、テントなどの共同装備もあって一人当たりの荷物が30kgを超えた。途中アクシデントがあり、出発時の仲間14名中11名が全コースを完全縦走した。
(会報 くまざさ 第4号 1964.4.1発行)
 前列左から、洞武夫、森本欣司郎(サブリーダー)、和田文雄、吉沢逸男、後列左から、野田純一、山口善章、堀江弘宣、広瀬逸男(筆者)、山本明二の諸氏、撮影者はリーダー立原仁氏、その他に村上圭史(達也)、中畔忠孝、新庄康裕、森本護の諸氏。
 過日の岳稜会の集いに集まった面々に、この懐かしい写真の顔々が重なった。